当たり前のことができない

好きで「できない」でいるわけではない!

 「まわりの人はみんな普通にできているのに、どうして自分はできないんだ?」なんて感じてしまうことありますよね。まわりのほとんどの人たちができているそれは、きっとまわりの人たちからすれば「できて当たり前」のことだったりするのでしょうね。そんなとき、その「できて当たり前」のことができない自分を恥ずかしく感じてしまうのは無理もないと思います。

 でも、まわりの人たちみんなが普通にできている「当たり前なこと」が、もしふざけているわけでもないのにできないのだとしたら、そこにはそれなりの原因があると考えるのが普通です。だって別に好きで「できない」でいるわけではなく、「できるようになりたい」と思っているのにできないのですから。

「普通」や「当たり前」

 「普通」や「当たり前」。とても曖昧な言葉だったりしますよね。設定する基準によって変化するこの言葉。つまりは状況によっては普通が普通でなくなり、当たり前が当たり前でなくなることもあるわけです。まわりの人たちみんなができないのだとしたら、できないことが普通になるのです。

 この「普通」や「当たり前」って、使い方によっては残酷な言葉になりますよね。人は「普通以外の人」のレッテルを貼られてしまうとたちまち居場所が減ってしまいます。「普通」や「当たり前」は時として、人に生き辛さを与えてしまう言葉の武器になり得るのです。とは言え、私も日常的にこの「普通」という言葉を使うことはあります。なにかと便利な言葉だったりもしますからね。気を付けるべきはその使い方です。少なくとも私は人を格付けするような「普通」の使い方はしないよう意識しています。私自身これまでに「普通」の言葉によって攻撃された苦い経験があるからです。「なんでこんなこともできないの?」って、本当に辛い言葉です。卑下されているように感じてしまいますよね。

できないことは誰にだってある

 実際のところ、まわりの人たちがみんなできているのに自分にはできないってこと、結構多くの人が経験しているようにも思います。たまたまそれがまわりの人たちに気づかれることのないものだったりすれば、辛い目に遭ったり思い悩んだりすることもないのでしょうね。

 できないことって誰にでも一つや二つはあるものなのだと思います。例えば「そんなこともできないの?」という人だって、ひょっとするとそう言った相手の人が普通にできることがその人にはできないってこともあり得るわけです。そう考えると「そんなこともできないの?」なんて、簡単に言うものではないですよね。そんな非建設的な態度で接する代わりに、「それができないのはどうしてなんだろう?」の姿勢で相手に接することができれば、その先の物語はずいぶん違ったものになると思うのですけどね。

できないことを受け入れ、工夫で補うことも立派な選択肢

 できないということには理由があるものです。例えば「自分の気に入ったこと以外のことにはどうしても取り組むことができない」ということについて考えてみると、こうなってしまう理由として「気持ちの持ちよう」なんてことがすぐに頭に浮かんできそうですが、それ以外にもただ単純に「自分の気に入ったこと以外のことに取り組む」という経験が不足しているがゆえの「できない」である可能性もあるわけです。つまりはその練習不足です。あとは、それらの理由にも当てはまらず、ただただ「やらなきゃいけないのは百も承知!だけどどうしてもできない!」という方もいると思います。そういう方はできないことを頑張ってできるようにするという取り組みよりも、まずは自分が「そういうことをするのが苦手な人」なのだと受け入れて、その上でその対策について考えていくほうが良い結果を得られるように感じます。

 己を知るということですね。自分のキャラクターを受け入れて、自分のキャラクターを理解する。これができるとただがむしゃらにできないことをできるように努力するのではなく、もっと自分にやさしい、工夫を凝らしたより良い取り組み方を考えることができるようになると思います。

 「普通にはできないけど、工夫をすればできる」ようになれば全然いいじゃないですか。最初は慣れずにストレスを感じるのかもしれませんが、慣れてしまえばそれが「普通」のこととなるのでストレスは感じなくなります。「普通にはできないけど、工夫を凝らしてそれをできるようにするための取り組みは普通にできる」ようになれば、きっと人生が変わるのでしょうね。

 「できないことを誰よりもうまくできるようになってやる!」となったら話は別なのですが、できないことは工夫で補うことが可能なこともあるってこと。私がお伝えしたかったのはそんなことです。

 

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